今日から、言いたい放題というコーナーを作りたいと思います。気分です気分。
古墳出土品の返還を 市原市が提訴へ 元調査団の70代男性
https://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201912/CK2019121402000162.html
東京新聞Webサイト20191214より
この市原市のニュースを読んで感じたのですが。
ぼちぼち、この業界は資料を共有するためのルールを決めた方がいいと思うのです。
報告書が刊行されてからではないと基本的には使用できないという資料利用のルールが、研究の進展を大きく阻害しているように感じています。
もっとも、調査担当者が現場の知見を踏まえつつ、きちんと報告書をまとめて公開し、それを基に研究を進めていくことが望ましいのは言うまでもないのだけど、そのために公開が遅れ、みんなその存在は知っているのに使用できない有名資料がそこここに、などというのは如何なものかと思います。
整理作業には時間がかかるし、劣悪な環境で何とか頑張っているのに、という声もあるとは思いますし、実際を知る身として理解もできます。また、貴重な資料だから充分な時間をかけてずっと残せる記録を、という想いもあるとは思うのですが。
でもね、記録はその時点の我々の認識で変わっていくべきもので、自分が得られた情報がその全てだ、なんて考えること自体、研究とはなんたるか、という基礎的な理解ができていないという誹りを受けても仕方がないのでは、と思います。むしろ、どんどん研究が積みあがって「こんな図今日日使えねえぜ」と後進の才ある若者に言われるくらい研究を進めるのが理想でしょう。10年前の図面で変わらず研究ができちゃうとか、そのままでいいとかってのは、その10年やってた世代の研究の停滞に他ならないですよ。負けよ負け。
注目される資料なのであれば、その時に出来ることを尽くした上で早急に公開して共有すれば、他の研究者が更に情報や観察を加えてくれるのではないかと思うのです。
例えば、調査後4年経過して報告書が様々な理由あれど出なかったら、誰でもその資料を記録化して使用出来る、というのはどうでしょう。
研究者個人に能力の限界があることを考えれば、情報さえ共有できればその資料により詳しい方が記録化や情報の取得を協力してくれる気がします。
オレは担当者と知り合いだから見ているけど、オマエは見ていないだろう、みたいなくだらないマウント取ったり、これはオレの資料だから気に入らない奴には見せない、みたいなクズ話、もうやめませんか。
このあたり、好事家と研究者との分離ができていない前近代的な側面が残っている気がするのです。
昔、どこにでも出ているような土器の図面など長々と出すものじゃない。半ページまで、と言われたのに腹を立てて、ならば実測図を1/64か1/128くれえでギッチリ並べてやるが文句はござるまいな、一度出したらその後でちゃんと1/4で資料紹介してやる。と上司に噛み付いたこともありました。でもこの議論も報告書で提示できなかったら使えない、を前提にしていたのだなあ、と今では少し恥ずかしく、また懐かしく思います。
図はその時にねじ込んだ図版。平城宮267次調査SD6030出土資料。まだ全紙トレースとか頭悪いことやってました。これで揉めた後、もっと凄い激突があって泡噴いたんですが、それは流石に書けないので、興味ある人は直接どぞー。