私達の大先輩でもあり、先生であり、今私の所属する研究室の基礎をつくられ、考古学を軸に多様な分野で研究を長年リードされた西村康さんが御逝去されました。
闘病されつつも、少し前まで研究室のいつもの机に座って、変わりなく作業をされ、休憩時間には甘いものとコーヒーを楽しみながら和やかに話をされていたので、あまりに急で気ばかりが動揺しています。
西村さんと聞くと、遺跡探査のことを想起される方が多いかと思います。遺跡に特化した探査技術を開発されてきたことは、ご存知の方も多いかと思います。そして、Dean Goodmanさんと共に進められた地中レーダー探査ではTime-Slice法により、遺跡探査における考古学的な理解が著しく向上しました。丁度その頃、あの福岡県での正倉に掘立柱建物が並ぶ姿を報告された時の衝撃はとても大きく今でも震えるような感動を覚えています。
また、測量、計測の世界でも活躍されました。きっちりと仕事をこなされる横で、いつも適当な私はよく怒られましたが、道具の扱いから計算まで、徹底した作業をされていました。また、長年研究で文化財の測量・計測とは何かを模索されていらっしゃいました。測量研修で多くの方にその方法を教えられていた姿もよく思い出されます。
故伊東太作さんと写真測量についても進められてきました。研究の基礎として故坪井所長、故牛川部長がはじめられた写真計測を引き継ぎ、資料を三次元で把握する方法を模索してきたことが、今の三次元計測の研究の推進の起点になっていることは間違いありません。
英語に堪能で、国内だけでなく、海外の考古学の教科書的書籍に名前が載せられている数少ない日本人考古学者でもありました。時々、BBCのニュースを聞きながら処理をされている姿を思い出します。奈文研を定年退官されてから、公益財団法人ユネスコ・アジア文化センター文化遺産保護協力事務所長としてアジア諸国の研究者の卵とでもいえる若い方々に様々なことを指導し、人材を育成してこられました。
そして、やはり、考古学研究者でありました。
学生時代から大阪和泉陶邑窯の調査に没頭し、優れた調査成果を残されました。故田辺昭三先生が平安高校から出版された『陶邑古窯跡群I』の基礎的な整理や当該期の研究者なら多くの人の頭に思い浮かぶであろうあの須恵器の図面を書かれたのは知る人ぞ知る表に出ない研究上の功績だったと思います。『須恵器大成』で確立したあの表現は几帳面で真面目な西村さんあって確立されたのだ、という話は、田中琢元所長、故佐原真元歴博館長をはじめ多くの先輩方から聞いてきた話です。それを基礎に書かれた「陶邑・猿投・牛頸−須恵器生産の進展−」『文化財論叢』は今も示唆的な内容を持っています。調査の話は驚くほど詳細に語られ、また土器や瓦、窯の話を生き生きと教えていただけるのが、とても嬉しい時間でした。
陶邑、平城、飛鳥と経験された発掘調査と遺跡の破壊の経験が、より迅速で詳細な記録や、非破壊による遺跡の把握といった課題といかに向き合うのかをテーマとして研究を進め、人を育て、成果をあげられてきた原動力だったのだろうと思います。
衣鉢を継ぐなどというと、おこがましいのですが。
その活躍と成果はあまりに大きく、私のようなものが言っていることはそのわずかな表層的な部分のみなのだろうと思います。しかし、残していただいた多くの成果と方法を、私達は非力ながらも少しでもその可能性を広げつつ、次の世代の優れた方に繋いでいくことを目標として頑張りたいと思います。そんなことに全く向いていない私が、要らぬかもしれぬ怒りと焦燥の中で引き継いだことが本当に良かったのかは、後の評価にお任せしたいと思います。この話もどこかでまとめておかなくてはいけないと思います。埋蔵文化財の保護や研究は、非常に脆くあやふやな基盤の上に今もあることを強く感じています。
御一緒した海外旅行であるアイルランドのICAP(国際遺跡探査学会)の写真をあげておきます。いやあ、君がいてくれてよかったよ、と過分な声掛けを頂きながら、街を歩いたり、世界の一線で活躍されている研究者に尊敬されているいつもの姿を拝見したり、若い頃調査で廻られた思い出多い墳丘墓を解説付きでご一緒できたりしたのは、ありがたいことでした。
本当に、言い表せませんし、思いもまとまりません。もっと色々なお話を聞いておくことが出来たら、と今更ながら反省しています。残念です。御冥福をお祈りいたします。そして、本当にありがとうございました。